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#0197『居酒屋』(二回目)ルネ・クレマン監督 1956年フランス

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ルネ・クレマン監督の『居酒屋』を再見しました。平行して、ゾラの原作も読書中です。原作と比較してみると、クレマンが原作に忠実に映画化したことは間違いないものの、原作で度々触れられるジェルヴェーズの詳細な人となりの描写を意図的に省いたのではないかという気がしてきました。

特に、ジェルヴェーズの堅実な人生観、まじめな働きぶり、夫クポーや子供たちへの献身についてはほとんど描写されていません。たとえば、クポーと結婚する前にジェルヴェーズは自分の人生観について次のように語っています。

「あたしは、高望みする女じゃない。それほど欲ばりじゃない・・・。あたしの願いは、地道に働くこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりした住居を持つこと、つまり寝床がひとつ、テーブルがひとつ、椅子が二つ、それだけあればいい、それ以上はいらない・・・。
そうそう、それから子供たちを育てて、できればいい人間にしてやりたい・・・。
もうひとつ願いがあるわ。こんど世帯を持つことがあったら、ぶたれないこと。いやよ、ぶたれるって・・・。これだけ、ほんとにこれだけなの・・・。そうねぇ、誰だって最後は自分の寝床で死にたいという望みを持ってもいいわけだわねぇ。一生、へとへとになるまで働いてから、自分の家の自分の寝床で死にたいわ。」(新潮文庫『居酒屋』古賀照一訳 より)

また、物語の時間経緯についても詳しく語られていないために、彼女が積み重ねた(誠実だったころ)の時間についても、スクリーンから実感することはできません。ジェルヴェーズは、クポーと結婚してから4年後にナナを産み、クポーが屋根から落ちて重傷を負うのはさらにその4~5年後。半年から一年にわたる独力の看病で、店を持つために必死に貯めた金を使い果たし、ようやくグージェの資金提供を得て店を持つにいたるのは、結婚から10年近く経とうかという頃です。そして、すっかり働かなくなったクポーを養いながら、さらに店を繁盛させ、幸せの頂点となる誕生パーティまでは、さらに3年以上の時間が経っています。この間、ジェルヴェーズは働きに働き通し、どんな望みもかなうほどの金を稼ぎ、無責任なクポーの姉ロリユ夫人から義理の母をひきとり、地元の人々からも尊敬される存在となります。

そういう、ジェルヴェーズの人となりとドラマの時間感覚が、原作ではたびたび記述されているのですが、映画では意図的に省かれているのではないかと思われます。さらに、原作で彼女が店を手放すのは物語半ば過ぎのことであり、その後は堕落したクポーとジェルヴェーズのただれたような生活が延々と続きます。その過程で、彼らのナナに対する虐待と、ナナの反発・家出などが起こりますが、このくだりもクレマンはすっぽりと省略してしまいました。結局、“ゾラの原作を忠実に再現している”と言われる、クレマンの作品は、かなりかいつまんだ描写にとどまっているといえます。ジェルヴェーズの人格的美徳といえる部分についても、目を背けたくなるような堕落した姿もクレマンは描かなかったのです。

では、クレマンの作品は原作に比べて粗く、リアリティに欠けるのかといわれれば、決してそんなことはありません。詳細な顛末描写の代わりに、ジェルヴェーズをはじめとして、ヴィルジニーやクレマンス、ロリユ夫人、ボッシュ夫人など、“女の存在感”に基づく生活のリアリティが、この転落劇にこれ以上ないほどの現実感を与えているからです。マリア・シェルは実に卓越した演技で、彼女の天真爛漫な笑顔から観客はその人柄を知り、それが男に媚びた卑しい笑顔になるときに、彼女の性格の弱さを感じ取ります。そして、むき出しの尻を殴りつけられるヴィルジニーや、アイロンがけをするクレマンスのゆれる胸、ランチエに抱きよせられるジェルヴェーズののけぞる背中などから、体臭がむせかえりそうなほど生々しい女の存在と、彼女たちの生活の現実が立ち上がってきます。

それに比べて、男たちは生活感が希薄ですが、その分これまたリアルに彼らのエゴが強調されています。まじめに取り組んできた仕事で大怪我を負ったために、仕事自体を憎むようになってしまったクポー。必死に働くジェルヴェーズを食い物にしていささかの罪の意識も感じないランチエ。グージェですら、自らの自尊心というエゴから、最終的にジェルヴェーズを受け入れることができませんでした。そういう男たちのエゴに対して毅然と接することできないジェルヴェーズの過度のやさしさによって、女の生活の現実は崩れ去っていくことになります。

自然主義というのは、美化を捨てて現実をあるがままに描くという客観性が要諦ではなく、人間は自分の人生を含めて世の中を変える力など持ち得ないという負の価値観を言うのだそうです。では何が人生のありようを決めるのかといえば、それは遺伝と環境であると言われています。「居酒屋」を含めたゾラの大著「ルーゴン・マッカール叢書」は、まさに遺伝と環境に支配された一族の歴史であり、アルコール中毒者マッカールの血を引いたジェルヴェーズは、どうあがいてもその呪縛から逃れることはできないのです。

映画の中で、ジェルヴェーズは二回しか酒を飲みませんが、その二回ともが彼女の人生が暗転する契機となっています。一回目はグージェが服役中にランチエとヴィルジニーと連れ立った観劇の場面。「慣れていないから・・」と言いつつ酒を飲む彼女は、この夜ランチエに抱かれ、それがヴィルジニーを経由してグージェの耳に入り、唯一の支えであったグージェの愛を失うことになります。また、二度目は、酒乱の果てに精神に異常をきたしたクポーが暴れ、ジェルヴェーズの店を徹底的に破壊してしまうシーンで、破壊しつくされた家の中で放心状態のジェルヴェーズは、ふと残されたぶどう酒のグラスに眼を留め、飲み残しのぶどう酒を一気にあおり、小さくため息をつきます。そして彼女は酒浸りの生活に堕ちていきます。クレマンは、彼女の心がついにバキリと折れてしまった瞬間を、一杯の酒に託して見事に映像化してしまいました。

原作によると、そもそも彼女は故郷で酒を飲みすぎ死ぬほどつらい目にあい、それ以来、パリに来てからも酒は飲みませんでした。必死に働いた日々においてもせいぜい梅酒の梅をかじるくらいだったジェルヴェーズですが、結局彼女はアルコールの呪縛から逃れることはできませんでした。ゾラは、「アルコール中毒は遺伝する」と考えていたそうですから、まさにマッカールの血の呪縛によって、ジェルヴェーズの転落は運命付けられていたということになります。

この映画は、そういう宿命的なジェルヴェーズの転落を、女たちの息が詰まるほどの肉感的生活感を表現手段としつつも、観客の感情移入を許さず、徹底的に突き放して描いた作品だと言えるのではないでしょうか。おそらくそこには、教訓的な色合いなど何もなくて、ルネ・クレマンは伝統工芸職人のように淡々と、この悲惨さを描き出したのではないかという気がしてなりません。

しかし、その冷淡なほどの“悲惨“の描き方は、その冷淡さゆえに観客にさまざまな思いを起こさせます。それは、「どれほど血と汗と涙で築き上げた人生であろうと、いかにも簡単に崩壊する可能性を秘めている、自分の人生も例外ではないのだ」という怖ろしい認識かもしれませんし、自らの人生と比較して戒めの気持ちを新たにする人もいるかもしれません。どちらにしても、いかなるメッセージも発しない客観的な転落劇をまずその目で見ることよって、その認識は出発するのだと思います。
★★★★☆

<関連記事>
■『居酒屋』(1回目鑑賞記事)
■覚書:自然主義 ~不毛のヴィジョン~

<スタッフ&キャスト>
監督:ルネ・クレマン
製作:アニー・ドルフマン
原作:エミール・ゾラ
脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:マリア・シェル/フランソワ・ペリエ
   アルマン・メストラル/ジャック・アルダン
   シュジー・ドレール/ジャニー・オルト


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#0179『居酒屋』ルネ・クレマン監督 1956年フランス

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ネタバレです。ご注意ください。

救いがない・・・・のかなぁ、やっぱり。

フランス自然主義文学の巨匠エミール・ゾラの同盟小説を、「禁じられた遊び」「太陽がいっぱい」のルネ・クレマン監督が忠実に映画化したと言われる本作。

自然主義文学とは、”自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する。”(by Wikipedia)ということであるから、映画としてもその趣旨に則っている。

19 世紀のパリの労働者の暮らしぶりがりアルに伝わってくる。石畳とレンガの建物が息苦しい雰囲気をかもし出す町並み。アパートの部屋は狭く、家族が折り重なるように暮らしている。一生懸命働いても大して贅沢ができるわけではなく、彼らは慎ましやかに日々生活している。作品中盤で描かれる誕生日パーティーのシーンは、そんな彼らのささやかな楽しみ。たまのご馳走を楽しみながら飲み歌う姿が印象的だ。パリの労働者の生活ぶりは、どう飾られることもなく、そのようにゴロリと観客の前に投げ出される。うーん、自然主義だ。

そういうパリの下町生活を舞台として5人の人間が登場する。

・洗濯屋を営む主人公のジェルヴェーズ:真面目な働き者。
・ジェルベーズの元夫(内縁)ランチエ:自分勝手な放蕩者
・現在の夫で屋根職人のクポー:自堕落な怠け者
・彼女に思いを寄せる鍛冶職人グージェ:自尊心にあふれる潔癖な理想主義者
・過去に諍いがあったが現在は友人(のフリ)のヴィルジニー:計算高い野心家

真面目な働き者のジェルヴェーズは、毎日を生き抜くために必死に働く。ランチエと二人の子供と共に暮らしていたが、ランチエはヴィルジニーの妹と良い仲になってしまい、突然姿を消してしまう。そのことで、ヴィルジニーと大喧嘩をした彼女は一念発起してせっせと働き、クポーと出会ってささやかな家庭を築き、洗濯屋の店も持つまでになる。ちなみに公共の洗濯場でのジェルヴェーズとヴィルジニーの対決は映画史に残る大喧嘩シーン。

しかし、順風満帆にことは運ぶのかと思いきや、そうはうまくいかない。仕事中に屋根から落ちて働く意欲をなくし、酒びたりになるクポー。突然彼女の前に現れて、間借り人として住み着いてしまうランチエ。クポーとランチエが自分勝手な行いで彼女の店と生活をぼろぼろに壊してしていくさまは、見ていて痛々しいほどだ。なにかとジェルヴェーズを支えてくれたグージェは、結局彼女とランチエの仲を疑うに至り、自尊心が傷つくことに耐えられず去っていく。

これが、アメリカ映画なら、やはり”真面目な働き者”の主人公が最後の最後には幸せをつかみハッピーエンドになるだろう。しかし、フランスではそう単純にはいかないものらしい。

真面目な働き者だったジェルヴェーズは、現実に打ちのめされて酒に浸り、友達のフリをしながら虎視眈々と彼女への復讐を狙っていた野心家ヴィルジニーが、自分さえ良ければなんでもOKのランチエと手を組んで、ジェルヴェーズの店をのっとり幸せをつかむ。

現実の世の中で、このようなことが起きないかといえば、絶対無いとは言い切れない。そして誰もがこういう困難を乗り越えて、明るい将来を信じて生きていけるかというと、やはり必ずしもそうではない。この映画がそういうきびしい現実を優れた観察力で生々しく描写している秀作であるということは疑う余地はない。自然主義にのっとる作品をいくつも観たわけではないが、その分野でも優れた一本であることは間違いないと思う。

しかし、それを映画として観るとつらいなぁ。エンド・ロールのあとに劇場の明りがついて、我に返ったときにこの後味はつらすぎるよ。その後、別の本で自然主義とは、「人はなにをしても世界と自分の運命を変えることなどできないという価値観」であるという話を読んだ。現実がそうとしか思えないことが多いと思うし、誰かの人生(自分も含めて)がそのように運んでしまうことも多々あるとは思うけれど、現実にも映画にも、もう少し希望を求めたいというのが正直な感想。徹底した堕落と崩壊のメカニズムを目撃したという経験を、少なくとも何かに役立てねばなぁ。。★★★★☆

<スタッフ&キャスト>
監督:ルネ・クレマン
製作:アニー・ドルフマン
原作:エミール・ゾラ
脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:ジョルジュ・オーリック

出演:マリア・シェル
    フランソワ・ペリエ
    アルマン・メストラル
    ジャック・アルダン
    シュジー・ドレール
    ジャニー・オルト

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#0172『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督 1951年フランス

禁じられた遊び
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ネタバレ気味です


『禁じられた遊び』と言えば、ギターを習っていた者にとっては特別な映画。ナルシソ・イエペスによる主題曲はどれだけ練習したかわかりません。あのメロディが聞こえてきただけで懐かしさがあふれます。

しかし作品の方は、ご多分にもれずはるか昔に一回観ただけで、覚えているのは子役の演技が奇跡的なうまさだったなという驚きと、ラストシーンが悲しかったなぁというそのくらい。さびしいもんです。

今回見直してみてこの作品にはちょっと怖いものを感じました。

ルネ・クレマン監督は人間から動物・虫に至るまでこの作品のいたるところに”死”をばら撒いています。それだけ強調されている"死"に対する登場人物の接し方が普通ではないと言うことがその怖さの原因のようです。

舞台は第二次大戦さなかの1940年、パリ近郊の村。死はそこら辺に日常的に転がっています。パリから非難しようとした一団がドイツ軍戦闘機の攻撃を受けてバタバタと死んでいきます。ポーレット(ブリジット・フォッセー)の両親も機銃掃射を受けて即死。死を理解できないポーレットが斃れた母の頬を小さな手でなでるシーンが悲しい。かわいがっていた犬も死んでしまいます。ルネ・クレマンは死に際に犬が四肢を痙攣させている様子まではっきり撮ってますね。

ポーレットは死んだ犬を抱いてさまよっているうちにミシェル(ジョルジュ・プージュリー)と出会います。ミッシェルは彼女に犬が死んだことを説明し、死んだら穴に埋め、十字架を立てるのだと教えます。

こうして彼女にとって”死”とは”穴に埋めて十字架を立てる”ということとイコールになってしまいますね。死ぬのはかわいそうだと感じるものの、死に敬意を払うべきだというようなことは理解できません。

また、ミシェルもポーレットを喜ばせたいがために、死者を敬い慰める象徴である十字架を次々盗み出そうとします。

暴れ馬にけられたミシェルの兄ジョルジュが死んだとき、ポーレットは「穴に埋めるの?」と聞きます。ミシェルは「よせ、僕の兄さんだぞ」とたしなめますが、それでもやはり兄の遺体を運ぶ霊柩車から十字架を盗みます。

ミシェルは隣家からひよこを盗んできますが、ポーレットに見せたときにはひよこは死んでいます。「うれしいかい?」と聞くミッシェルにポーレットは「うん」と答えます。

子供たちは死の本質を理解しないまま、次々と墓を作って十字架を立てます。清らかに美しい音楽やブリジット・フォッセーのかわいらしさとは裏腹に死の本質を理解しない子供たちの葬式ごっこはやはり怖い。ブリジット・フォッセーの(多分)青い瞳があまりに無邪気すぎて、さらに怖さを増幅します。

ミシェルの両親は当然子供たちのこういう遊びを快く思いません。でも、彼らも"死”について理解し敬意を払っているのか甚だ疑わしい。隣家の妻の墓を汚い石ころだとののしる。墓場で乱闘する。十字架をへし折る。大人たちもやはり死に対してまっとうな態度を示していないようです。

結局、この映画からずっと感じる怖さの根本にあるのは、大人も子供も死というものを正しく取り扱っていないという一種の異常さです。突き詰めると、結局はそういう人間社会における当たり前のことができなくなってしまう戦争というものの恐ろしさということにたどり着きます。

大人たちは、子供の葬式ごっこには違和感を感じるのに、戦争によって自分たちも死に対して無感覚になってしまっていることに気がつかない。そういう大人たちに引き裂かれてしまった二人の姿が哀れです。ラストシーンのミシェルを捜し求めるポーレットの姿は忘れられません。
★★★★☆

<スタッフ&キャスト>
監督:ルネ・クレマン/製作:ポール・ジョリ
原作:フランソワ・ボワイエ/
脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:ナルシソ・イエペス
 
出演:ブリジット・フォッセー/ジョルジュ・プージュリー
   シュザンヌ・クールタル/ジャック・マラン


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