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ルネ・クレマン監督の『居酒屋』を再見しました。平行して、ゾラの原作も読書中です。原作と比較してみると、クレマンが原作に忠実に映画化したことは間違いないものの、原作で度々触れられるジェルヴェーズの詳細な人となりの描写を意図的に省いたのではないかという気がしてきました。

特に、ジェルヴェーズの堅実な人生観、まじめな働きぶり、夫クポーや子供たちへの献身についてはほとんど描写されていません。たとえば、クポーと結婚する前にジェルヴェーズは自分の人生観について次のように語っています。

「あたしは、高望みする女じゃない。それほど欲ばりじゃない・・・。あたしの願いは、地道に働くこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりした住居を持つこと、つまり寝床がひとつ、テーブルがひとつ、椅子が二つ、それだけあればいい、それ以上はいらない・・・。
そうそう、それから子供たちを育てて、できればいい人間にしてやりたい・・・。
もうひとつ願いがあるわ。こんど世帯を持つことがあったら、ぶたれないこと。いやよ、ぶたれるって・・・。これだけ、ほんとにこれだけなの・・・。そうねぇ、誰だって最後は自分の寝床で死にたいという望みを持ってもいいわけだわねぇ。一生、へとへとになるまで働いてから、自分の家の自分の寝床で死にたいわ。」(新潮文庫『居酒屋』古賀照一訳 より)

また、物語の時間経緯についても詳しく語られていないために、彼女が積み重ねた(誠実だったころ)の時間についても、スクリーンから実感することはできません。ジェルヴェーズは、クポーと結婚してから4年後にナナを産み、クポーが屋根から落ちて重傷を負うのはさらにその4〜5年後。半年から一年にわたる独力の看病で、店を持つために必死に貯めた金を使い果たし、ようやくグージェの資金提供を得て店を持つにいたるのは、結婚から10年近く経とうかという頃です。そして、すっかり働かなくなったクポーを養いながら、さらに店を繁盛させ、幸せの頂点となる誕生パーティまでは、さらに3年以上の時間が経っています。この間、ジェルヴェーズは働きに働き通し、どんな望みもかなうほどの金を稼ぎ、無責任なクポーの姉ロリユ夫人から義理の母をひきとり、地元の人々からも尊敬される存在となります。

そういう、ジェルヴェーズの人となりとドラマの時間感覚が、原作ではたびたび記述されているのですが、映画では意図的に省かれているのではないかと思われます。さらに、原作で彼女が店を手放すのは物語半ば過ぎのことであり、その後は堕落したクポーとジェルヴェーズのただれたような生活が延々と続きます。その過程で、彼らのナナに対する虐待と、ナナの反発・家出などが起こりますが、このくだりもクレマンはすっぽりと省略してしまいました。結局、“ゾラの原作を忠実に再現している”と言われる、クレマンの作品は、かなりかいつまんだ描写にとどまっているといえます。ジェルヴェーズの人格的美徳といえる部分についても、目を背けたくなるような堕落した姿もクレマンは描かなかったのです。

では、クレマンの作品は原作に比べて粗く、リアリティに欠けるのかといわれれば、決してそんなことはありません。詳細な顛末描写の代わりに、ジェルヴェーズをはじめとして、ヴィルジニーやクレマンス、ロリユ夫人、ボッシュ夫人など、“女の存在感”に基づく生活のリアリティが、この転落劇にこれ以上ないほどの現実感を与えているからです。マリア・シェルは実に卓越した演技で、彼女の天真爛漫な笑顔から観客はその人柄を知り、それが男に媚びた卑しい笑顔になるときに、彼女の性格の弱さを感じ取ります。そして、むき出しの尻を殴りつけられるヴィルジニーや、アイロンがけをするクレマンスのゆれる胸、ランチエに抱きよせられるジェルヴェーズののけぞる背中などから、体臭がむせかえりそうなほど生々しい女の存在と、彼女たちの生活の現実が立ち上がってきます。

それに比べて、男たちは生活感が希薄ですが、その分これまたリアルに彼らのエゴが強調されています。まじめに取り組んできた仕事で大怪我を負ったために、仕事自体を憎むようになってしまったクポー。必死に働くジェルヴェーズを食い物にしていささかの罪の意識も感じないランチエ。グージェですら、自らの自尊心というエゴから、最終的にジェルヴェーズを受け入れることができませんでした。そういう男たちのエゴに対して毅然と接することできないジェルヴェーズの過度のやさしさによって、女の生活の現実は崩れ去っていくことになります。

自然主義というのは、美化を捨てて現実をあるがままに描くという客観性が要諦ではなく、人間は自分の人生を含めて世の中を変える力など持ち得ないという負の価値観を言うのだそうです。では何が人生のありようを決めるのかといえば、それは遺伝と環境であると言われています。「居酒屋」を含めたゾラの大著「ルーゴン・マッカール叢書」は、まさに遺伝と環境に支配された一族の歴史であり、アルコール中毒者マッカールの血を引いたジェルヴェーズは、どうあがいてもその呪縛から逃れることはできないのです。

映画の中で、ジェルヴェーズは二回しか酒を飲みませんが、その二回ともが彼女の人生が暗転する契機となっています。一回目はグージェが服役中にランチエとヴィルジニーと連れ立った観劇の場面。「慣れていないから・・」と言いつつ酒を飲む彼女は、この夜ランチエに抱かれ、それがヴィルジニーを経由してグージェの耳に入り、唯一の支えであったグージェの愛を失うことになります。また、二度目は、酒乱の果てに精神に異常をきたしたクポーが暴れ、ジェルヴェーズの店を徹底的に破壊してしまうシーンで、破壊しつくされた家の中で放心状態のジェルヴェーズは、ふと残されたぶどう酒のグラスに眼を留め、飲み残しのぶどう酒を一気にあおり、小さくため息をつきます。そして彼女は酒浸りの生活に堕ちていきます。クレマンは、彼女の心がついにバキリと折れてしまった瞬間を、一杯の酒に託して見事に映像化してしまいました。

原作によると、そもそも彼女は故郷で酒を飲みすぎ死ぬほどつらい目にあい、それ以来、パリに来てからも酒は飲みませんでした。必死に働いた日々においてもせいぜい梅酒の梅をかじるくらいだったジェルヴェーズですが、結局彼女はアルコールの呪縛から逃れることはできませんでした。ゾラは、「アルコール中毒は遺伝する」と考えていたそうですから、まさにマッカールの血の呪縛によって、ジェルヴェーズの転落は運命付けられていたということになります。

この映画は、そういう宿命的なジェルヴェーズの転落を、女たちの息が詰まるほどの肉感的生活感を表現手段としつつも、観客の感情移入を許さず、徹底的に突き放して描いた作品だと言えるのではないでしょうか。おそらくそこには、教訓的な色合いなど何もなくて、ルネ・クレマンは伝統工芸職人のように淡々と、この悲惨さを描き出したのではないかという気がしてなりません。

しかし、その冷淡なほどの“悲惨“の描き方は、その冷淡さゆえに観客にさまざまな思いを起こさせます。それは、「どれほど血と汗と涙で築き上げた人生であろうと、いかにも簡単に崩壊する可能性を秘めている、自分の人生も例外ではないのだ」という怖ろしい認識かもしれませんし、自らの人生と比較して戒めの気持ちを新たにする人もいるかもしれません。どちらにしても、いかなるメッセージも発しない客観的な転落劇をまずその目で見ることよって、その認識は出発するのだと思います。
★★★★☆

<関連記事>
■『居酒屋』(1回目鑑賞記事)
■覚書:自然主義 〜不毛のヴィジョン〜

<スタッフ&キャスト>
監督:ルネ・クレマン
製作:アニー・ドルフマン
原作:エミール・ゾラ
脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:マリア・シェル/フランソワ・ペリエ
   アルマン・メストラル/ジャック・アルダン
   シュジー・ドレール/ジャニー・オルト


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