
”A STREETCAR NAMED DESIRE”
田舎町オリオールからニューオーリンズに住む妹ステラを頼ってきたブランチ。実は、夫を亡くしたショックから身をもちくずし、17歳の少年を誘惑したことで追われるように故郷を出てきた。大荘園の娘だったブランチはことごとに上品ぶった態度をとるが、ステラの夫スタンレーはそれが我慢できない。粗暴で猜疑心の強い彼はオリオールでのブランチの行状を調べ上げ、精神的に彼女を追い詰めていく。
テネシー・ウィリアムズの同名戯曲の映画化。1947年にはブロードウェイ舞台劇として上演されており、ブロードウェイ史上最高のヒット作として高い評価を得ました。本作はこの舞台劇の演出家を務めたエリア・カザンを監督に迎えて製作されています。
『アンナ・カレニナ』、『哀愁』、『美女ありき』 とヴィヴィアン・リーを観て来ましたが、悲劇のヒロインとしての壮絶な演技と彼女の実生活がダブってしまい感情移入しすぎることが多々あります。特にこの作品は、結核と躁鬱病にさいなまれていたまさにその時期に、スタンレーによって追い詰められ狂気に陥るブランチの役を演じたわけで、そう思うとどうしても容色も衰えたヴィヴィアン・リーの姿もつらく、追い詰めるマーロン・ブランド演じるスタンレーにも生理的な嫌悪感を感じてしまって、観たくない(観るのがつらすぎる)映画として自分の中では位置づいてしまっているのです。
が、そういう”ヴィヴィアン・ファンクラブ”的な感情はさておいて観直すと、特に俳優の演技という面で非常に優れた映画であることは間違いありません。
主要キャスト4名(ブランチ役のヴィヴィアン、ステラ役のキム・ハンター、その夫スタンレー役のマーロン・ブランド、ブランチに結婚を申し込むスタンレーの友人ミッチ役のカール・マルデン)のうち、ヴィヴィアン以外の三名はブロードウェイ舞台劇で同じ役を演じています。
三人とも有名なアクターズ・スタジオの出身。アクターズ・スタジオでは”メソッド”と呼ばれる演技法をとっていますが、これは演技に形から入るのではなく内なる感情の吐露としての演技を求めるということのようです。より自然体に近い演技を求めるわけですが、”切れる”マーロン・ブランドは当然のことながら、過去を知ったミッチがブランチをなじるときのカール・マルデンの演技や、殴られて家を飛び出した後にスタンレーの元に戻るときのステラ役キム・ハンターの演技などはまさに感情の爆発。
かたや、ヴィヴィアン・リーは映画と同じく舞台にも情熱を傾けた女優で、『欲望という名の電車』のロンドン公演でもブランチの役を演じています。ロンドン版は夫ローレンス・オリヴィエが演出を行っていたわけで、オリヴィエといえば当代最高のシェイクスピア役者といわれた人。当然ヴィヴィアンも演技の面でオリヴィエの影響を受けていたであろうと思われます。
結果、この4名の競演は強烈な演技合戦となるわけですが、アクターズ三人組と伍してもヴィヴィアンの演技はまったく引けをとりません。目の表情、首の傾げ方、歩き方から指先の使い方まで、筋金入りの”悲劇の達人”。アカデミー主演女優賞も当然!と思わせてくれます。(アカデミー賞といえば、この4人の中でマーロン・ブランドだけとれなかったんですね。やっぱり、あんまりいやな奴ぶりがリアルすぎたんでしょうか・笑)
久々に観なおしてみてこの映画のすばらしさに改めて気づいたということで、★★★★★
<スタッフ&キャスト>
監督: エリア・カザン
製作: チャールズ・K・フェルドマン
原作: テネシー・ウィリアムズ
脚本: テネシー・ウィリアムズ/オスカー・ソウル
撮影: ハリー・ストラドリング
音楽: アレックス・ノース
出演: ヴィヴィアン・リー/マーロン・ブランド
キム・ハンター/カール・マルデン
ルディ・ボンド/ニック・デニス
ペグ・ヒリアス/ライト・キング
リチャード・ガリック
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いただいたトラバとコメントに、きちんと考えてお答えしたいのですが、いろいろ考えてまごまごしているうちにちょいと時間的な余裕がなくなってしまいました。2週間後に改めてTB記事にお邪魔しますのでしばしご容赦ください。
そんなとんでもない企画の下に、この名作の感想を簡単に書いた記事をTBします。ほんとに簡単なので、ごくごくさわりしか書いていない内容ですが。
滅び行く世代&階級である南部の名家を、ブランチに託して描いているという解釈はもちろんあると思います。特にウィリアムズの原作戯曲の方には、新旧時代の軋轢という要素が大きかったように思いますしね。私自身はこの映画を観たとき、ブランチに「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが落ちぶれた姿を重ね合わせてしまいました。
私は一応女ですから(爆)、ブランチの焦燥も哀しみも実感できます。こればっかりは、男性諸氏にはわからない類の感情でしょうね。尤も、私とてブランチに共感は出来ないし友達になりたいとは思わないけど(^^ゞ。
スタンリーの抱える痛み、ステラの弱さと狡猾さ、ミッチの卑屈さ。どれをとっても、人間の業を抉り出す描写でありました。映画では、あのラストが精一杯であったように思われます…。というか、エリア・カザンにはあれが限界だったというべきか。
トムさんのブログにもコメントできてないのに、先にお越しいただいちゃってすみません。
>ジェルヴェーズに続いて、スタンレーやブランチへの見方もFROSTさんとバッティングしちゃったようです
トムさんとバッティングすると必死に見直して考え直すんで大歓迎です・笑。この記事は、再掲記事なんですけど、読み直すとほとんど作品解釈してませんねぇ。というのも、どうもヴィヴィアンファンの私としては、『欲望という名の電車』を正視できない部分があるんですよね。このころの舞台や映画撮影では、本番のときだけ正気に戻るというようなこともあったそうで、あまりに壮絶で。。。それでも、やはり本作のヴィヴィアン・りーの演技には感動してしまうのですが。
ついでに言うと、エリア・カザンという監督はどうも説教くさいというか目線が上(これは『紳士協定』の印象)というか、私は評価できません。原作のラストは初めて知りましたが、監督の好みなんでしょうかね。
こちらは原作も映画も大好きなので、コメントさせていただきます。
また、作品の主題は、わたくしとしては原作の始めと終わりに、それをかんじているので引用します。
>白人と黒人の二人の女が、この建物の階段に腰をおろして涼んでいる。・・・ニューオーリアンズはコスモポリタンの都市であり、古い地区では異人種間のつきあいも比較的あたたかく気楽におこなわれているのである。
>姉が去っていったいま、思いきり涙に身をまかせているステラの様子には、どこか満ちたりた感じさえ見られる。
(新潮文庫 小田島雄志訳)。
このような文言から、わたしが感じるところは、テネシー・ウィリアムスが新時代のアメリカを展望しているという解釈なのです。つまり、社会のどの部分かはわかりませんが、社会での役割をどちらが担っているのかを考えたとき、これはスタンリーが大きく貢献し、ブランチは存在していないわけです。
アメリカ南部での地主階級の人種差別意識の敗北をブランチに象徴させているという解釈もできるように思います。
わたしとしては、ヴィスコンティの『若者のすべて』のロッコの現代・未来の姿がスタンリーであり、ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』のノーマ・デズモンドがブランチであるようにも思います。
ですから、映画でのラストシーンのステラの台詞は、わたしとしては道義的過ぎるというか、人道的過ぎるというか・・・。やはり原作のとおりステラの安堵を描いてほしかったように思うわけです。
何だか、ジェルヴェーズに続いて、スタンレーやブランチへの見方もFROSTさんとバッティングしちゃったようです(あっそれから、コメしてませんけど、ロッセリーニ&バーグマンもかな?)。
わたし自分ではフェミニストのつもりでいたんですがね(笑)。
では、また。
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